西郷隆盛といえば、大河ドラマ西郷どんで話題が沸騰中です。しかし、どんな歴史上の人物にも最後というものがあり、例外なく西郷隆盛にも最後の時というものがあるのですが、いったい西郷隆盛の最後はどうだったのでしょうか?調べてみました。
西郷隆盛の死因となった戦争
西郷隆盛は、西南戦争という日本最後の内戦にて戦死しています。
西南戦争とは、士族が新政府に対して起こした反乱です。
新政府の新しい政策に不満をもった元武士の士族は、西郷隆盛をリーダーに担ぎ上げ、新政府に対して戦争を起こします。
開戦当初は、熊本城を包囲するに至るのですが、兵器、物量の差もあり、徐々に敗北していきます。ついには、鹿児島の城山へ後退していきます。
西郷隆盛の最後となった城山の戦いとは
13000人いた薩軍は、わずか350余名ほどしか残っていませんでした。
対する政府軍は、約40,000人で城山を包囲します。
薩軍の残った少将には、桐野利秋・村田新八・別府晋介などがいました。
戦いの直前9月23日に、山県有朋は、城山の洞窟に潜む西郷に手紙を送ります。
(山県有朋は、新政府発足時の西郷隆盛のかわいい教え子です。)
「あなたと、敵として相対するとは思いませんでした。今日のことはあなたの本心ではないと私は分かっています。政府の兵は仕事のために戦っているが、薩摩の兵は西郷のために戦っている。あなたの偉大さは十分に証明されました。これ以上の血を流す必要はない。早く命を絶ちこの戦いを終わらせるべきではないでしょうか?」
翌9月24日、政府軍は総攻撃を仕掛けます。
戦いの最中、西郷は、政府軍の銃撃により股と腹に被弾します。
西郷隆盛の最後の言葉
被弾した西郷は、自分の死期が近いと悟ったのでしょう。近くにいた別府晋介に「晋どん、晋どん、もう、ここでよか」と言い、皆が見守る中、ひざまずいて天皇のいる東方を拝みました。
遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府晋介は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷を介錯しました。
明治10年9月24日午前7時、享年49歳でした。
諸説ありますが、西郷は切腹はせず、その場に座り込み首を切られるまで座り込んでいた。と言われています。
1877年9月24日、午前4時にはじまり同日9時には戦いは終わりました。
これが、西郷隆盛の最後の様子です。
西郷隆盛の死後
かつての盟友大久保利通は
「国家のために賀すべし」と言葉少なめにつぶやきました。
西郷隆盛の人柄を愛していた明治天皇はこう言ったと伝えられています。
「朕は、西郷を殺せとは言わなかった」
西南戦争での西郷隆盛の存在は、軍隊には強いカリスマが必要という新政府の方針へとつながります。これ以降、軍人の大元帥として天皇が描かれるようになっていったのです。
当時京都の公家の代表としてのイメージが強かった天皇は、その後軍服姿で描かれることが多くなります。それは明治陸軍が天皇の軍隊となったことを意味します。
そして西南戦争から12年後、天皇の強い意思で西郷隆盛は逆賊の汚名を取り除かれます。
明治31年、東京の上野に西郷の銅像が建てられます。
犬を連れて狩に出かける姿。西南戦争が起きるまで、西郷はこの姿で野山を駆け回ることを好みました。カリスマの重荷を脱ぎ捨てた自由な男の姿です。
山県有朋は祝辞でこのように語り掛けます。
「私は、かつてあなたに政府で仕え教えを乞いました。私はひとり悲しんでいます。あなたとの交わりを全うできなかったことを。。。」
まとめ
西郷隆盛という人物の最後にスポットを当ててみました。
その人柄なのでしょう。皆にリーダーとして担ぎ上げられやすい性格だったようです。
内戦を起こした人物が今現代にわたりこのように愛されることはありません。
それは、西郷隆盛という人物が、真のカリスマであったということがうかがえます。
だからなのでしょう。西郷隆盛を政府に立てついた内戦の首謀者として見るものは現代においてひとりもいません。
それが、時代を超えて西郷隆盛という人間が今も愛される理由なのです。
参考文献
その時歴史は動いた(NHK)、Wikipedia