森鴎外の「阿部一族」のあらすじを簡単にわかりやすくご紹介します

森鴎外の歴史小説「阿部一族」は江戸時代初期、今の熊本県で起きた事件を基にしています。主君の後を追って命を絶つ「殉死」がテーマとなっています。

今回は簡単ではありますが、この阿部一族のあらすじをわかりやすくご紹介します。

1641年、肥後熊本藩の藩主、細川忠利の病が悪化。側近たちは次々に殉死を願いでました。

内藤長十郎もその一人でした。

病床の忠利の足をそっと持ち上げ、自分の額に押し当てて頼みますが、忠利に一蹴されてしまいます。ですが、長十郎はあきらめません。3度申し出てやっと許されることとなります。

許可されたのは、長十郎を含めた18人。忠利は、親しく使っていた者が死後も生きながらえたら、世間から卑怯者と見られ、さぞくやしいだろうと思い、慈悲の心から「許す」と言ったのです。

阿部弥一右衛門も殉死を申し出ましたが、欠点や隙のない彼をけむたがっていた忠利は許可をしませんでした。「人には誰が上にも好きな人、厭な人というものがある」からで、つまり気にくわなかったのです。

忠利の死後、旧臣が次々と殉死してゆく中で、弥一右衛門は命を惜しんでいるという噂が立ってしまいます。

弥一右衛門は耐えられなくなり、一族を集めて切腹をしました。

ですが、許可なく殉死したことが問題となり、阿部家は藩から家格を落とされる処分を受け、さらに度重なる屈辱が加えられます。一族は覚悟を決めて屋敷にたてこもり、藩が差し向けた討手と死闘の末に全滅してしまいます。

現代からみれば理不尽な物語です。

しかし、今を生きる私たちも、対面や評判を気にして生きているなら同じでしょう。

逆に封建社会にあっても、おのれを貫こうとした人間もいたのだということを心に留めておきたいものです。

森鴎外は遺書に「余は石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と書きました。

軍人として高位につき、文学者として名声を得た鴎外もまた、自分自身でありたかったのではないでしょうか?

 

阿部一族の殉死のテーマはどこから?

1912年7月30日、明治天皇が亡くなりました。

同年9月13日、乃木希典陸軍大将が夫婦で殉死をして大きな話題になりました。

そのすぐ後に、森鴎外が殉死を主題に書いた小説が「興津弥五右衛門の遺書」で、初めての歴史小説です。「阿部一族」は歴史小説2作目ですが、やはり殉死をテーマとしています。

乃木希典の殉死に対する森鴎外の衝撃の大きさがうかがえると言えそうです。